1984  

拷問シーンのサイモン・キーンリーサイド


18,19世紀に書かれたオペラが主流のオペラ界で、新作オペラの発表は珍しい出来事。折角だから誰も聴いたことも観たこともない初日に行くのが観客の興奮度も最高。ということで早速 行ってきました。


題材は「1984年」というジョージ・オーウェルの有名な未来小説で、ロリーン・マゼ-ルが作曲。 マゼ-ルは世界的な指揮者で、ウィーン国立歌劇場の元音楽監督で(今は小澤征爾)、今はニューヨーク・フィルの常任指揮者。クラシック音楽界の重鎮、巨匠です。そんな彼が75歳にしてはじめて書いたオペラです。

普通、新作オペラは、オペラハウスが作曲家にお金を支払って注文し、舞台セットも賄うのですが、今回はそうではなく、マゼ-ル自身がほとんど出して無料で指揮もやってくれたのです。・・そりゃそうですよね、高齢でオペラ作曲家としての実績ゼロの人に頼む人はいないでしょう。だからこのオペラ、最初から金持ちじいさんの道楽と思われていて、あまり真剣に期待されてはいなかったようです。オペラハウス側は、失敗しても、多少の笑いものにはなるでしょうが損はしないので、公的資金の無駄使いと非難されることはなく気楽なものです。


まずはストーリー。1984年のイギリスはまるで文化大革命の中国のような管理社会になっていて思想の自由はなく、物資は配給制で行動はTVカメラでずっと監視されている。そんな体制に疑いを持った主人公は罠にはまり拷問されて洗脳されるという、重くて暗い話。道楽にしてはじいさん深刻な題材を選んだものです。「無知は強さだ」「束縛は自由なり」「戦争は平和」という刺激的なスローガンが繰り返えされます。 尚、 この小説に出てきたBig Brother(一部始終を監視する機関)とかRoom101(恐ろしい拷問室)という言葉はイギリスでは一般的に普及していて、最近Big BrotherというTV番組がありました。TVカメラが数人を部屋に閉じ込めてずっと監視して人間関係の発展を見るという志向です。私は見ませんでしたが、大変な人気でした。Room101というインタビュー番組もありました。


そんな設定なので衣装は作業服のような地味でお揃いのユニフォームにならざるを得ないのですが、舞台セットは文句なく素晴らしかったです。ロイヤルオペラハウスでこんな大掛かりなセット見たのははじめてで、場面が変わる度に回ったり、開いたり畳まれたり動いたり、すごーい! 映像もふんだんに使われて、普段こちらが想像力を逞しくしなくちゃならない経費節約舞台に慣れている観客には驚嘆で、どの新聞批評にも舞台は誉められました。


パフォーマンスがまた素晴らしく、主役の英国人バリトン、サイモン・キーンリーサイドは一世一代の熱演を見せてくれました。彼は何度も見たことがありますが、いつも芝居の上手さには感心します。ドン・ジョバンニもビリー・バッド、ハムレット、パパゲーノもすべて体全体で表現できる彼はオペラ歌手の中では一番の演技派で、特に今回のこの苦悩に満ちた役は彼が得意とするところ、容貌もどんぴしゃで舞台役者並みの演技は素晴らしいの一言でした。ファイナンシャル・タイムス紙には一人よがりの芝居と批評されましたが、それはきっと期待が高過ぎたからで、シェイクスピア俳優ではあるまいし、あれ以上オペラ歌手に要求するのは無理でしょう。もう一つ、彼は実はちょっと露出狂気味でやたら脱ぎたがるのですが、今回も予想通り上半身裸になってくれました。ボディビルをやっているにちがいありません、端正なインテリ風二枚目の顔からは想像できないような筋肉マンなのです。ムフフッ!


他の歌手も皆上手で、恋人役のナンシー・グスタフソン(もうすぐ日本で「エレクトラ」と「こうもり」に出るそうです)は不粋な作業服を着ていてもエレガントで素敵でしたが、特に絶賛されたのはコロラチューラ・ソプラノのダイアナ・ダムロー。ドイツ人の彼女はロイヤルオペラハウス版の魔笛のDVDで夜の女王を歌っているし(パパゲーノはサイモン・キーンリーサイド)、ここによく登場するのですが、高音がスカーっと突き抜けていつもヤンヤの拍手喝采。この舞台でも、体操のおねえさんと酔っ払いの中年女の二役で、夜の女王の何十倍もコロコロと曲芸のように声を転がして短い出演場面でも明るい歌声は一番印象に残ります。


さて、舞台は豪勢、パフォーマンスも素晴らしいということはどの批評でも誉められましたが、肝心の音楽はどうだったのでしょう? 


うーん、これがねえ・・。


悪くはないんですよ、決して。さすが一流の指揮者、長い間色々な名曲を指揮してきただけのことはあって器用にそつなくそれぞれの雰囲気に合った音楽をはめて、前衛的過ぎず、聴きやすい音楽で。特に私が気に入ったのは、ソプラノとテノールが高音を目一杯張り上げるところが多かったこと。皆上手だったし。でも単調で深みはなく、これではミュージカルのレベルではないかという記事もありましたし、一番の批判は、要するにオリジナリティが無いこと。他の何かの焼き直しみたいだと。


それに、長過ぎましたね。正味2時間半ちょっと。新しいオペラはいくつか観ましたが、はじめて見て納得できるようにと思うせいか、みな説明調になってしまうんですね、どうしても。最初はわからなくてもいいのでエッセンスだけにすればいいと思うのですが。


じいさんの道楽にしては悪くなかったし、下手すると彼の指揮者としての名声まで傷がつくかもしれなかったのですが、そこまでひどくは無く、結局頑張ったけど作曲家として一流の才能はなかったねということだったでしょうか?


しかし、このオペラに次回はあるのでしょうか? 疑わしいところですが、自らお金をほとんど出したマゼ-ルが独自のプロダクション会社を作って他のオペラハウスに売り込みに行くのでしょう。もう少し短くして手直しすればいけるかもしれません。 まあ駄目でこれっきりでも彼が破産するわけではないだろうし。ハリウッド映画のような規模ではないですもんね。


因みに新作オペラは切符代がいつもよりうんと安くて、最高の値段でも50ポンド(一万円)。いつもの3分の1。私の席はいつものupper slipでなんと5ポンド(千円)。時々流れる「我軍は前線にて連日敵を駆逐し勝利を収めリ」とか「チョコレートの配給が一日20グラムに増大」というプロパガンダ放送のナレーションはなんとアカデミー主演男優賞受賞のジェレミー・アイアンズという豪華さだったし(トチったりしたので録音ではない筈)、こんなお得なお金の使い方は他にはありません。


尚、ジェレミー・アイアンズと言えば、サイモン・キーンリーサイドは彼を少し小さくしたような容姿ですので、それで想像して下さい。

 

近くて良い席が残っていればもう一度行こうかなとも思いますが、それはサイモンの迫真の演技と裸が見たい、あのアクロバット・コロラチューラが聴きたいということで、音楽をもう一度聴きたいというわけではありません。