6月22日に巨匠アルフレッド・ブレンデルのピアノ・リサイタルに行きました。

オーストリア人のブレンデルは75歳くらいでしょうか、今はロンドンに住んでいるので、彼の演奏を聴く機会はちょくちょくあり、私は2,3度聴いたことがあります。年取った巨匠というのが一番失望することが多いのですが、彼の場合もその通りで、若いときにはもっとうんと上手だったにちがいない、でも出会う時代がちがったのだから仕方ないと思っていました。しかしもう一度だけ、本当に老いぼれる前に聴きに行こうと、今回の切符を買ったのでした。


brendel

(Alfred Brendel)


モーツァルトの変奏曲K573でウォーミング・アップした後は、シューマンのKreislerianaという、これは40分程掛かった変化に富んだなかなかの大曲を、詩人でもある彼は情緒たっぷりに弾いてくれて、さすがにベテランらしい貫禄を見せてくれたのですが、最後の方で指がもつれてしまいました。ピアノを弾くには体力が必要ですが、やはり年齢による疲労でしょうか?

休憩の後は元気を取り戻し、シューベルトの即興曲D780のうち3曲を軽快に正確に弾きこなしたのですが、最後のベートーベンのソナタOp28で信じられないことが起こりました。ほんの2、3秒ですが、曲を忘れて立ち往生(ピアノですから座ってますけど)してしまったのです。すぐ回復して充分挽回したのですが、衰えは明らかです。

彼はこのロイヤル・フェスティバル・ホールで40年間数多くの演奏をしてきましたが、これが最後になる可能性は極めて大きいと思われ、感傷的な雰囲気となりました。


実はこのコンサートには他にももう一つ聴衆が大きな淋しさを感じる理由がありました。ロイヤル・フェスティバル・ホールは修復のために約2年間閉鎖されるのですが、これが最後のコンサートだったのです。演奏開始前に偉いさんの挨拶もありました。オープンして50年余り経って老朽化したのと、ずっと音の悪さを批判されてきたのを改善するため、何年も前から大規模な改修の計画はあったのですが、主に費用の問題でずっと延期になっていたのを、やっと着工の運びとなったのです。


roiyal opera house

(Royal Festival Hall)

しかし、どうも資金調達の目処は完全には立っていないようで、本当に完成できるのかどうか疑問が残っているようなのです。先月のロンドン・アイ撤去騒動(英国あれこれ(標準語)「ロンドン・アイ撤去騒動」をご覧下さい)も、差し迫ってお金が要るために起こした行動にちがいありません。

8年ほど前にロイヤルオペラハウスが改築工事をしたときも費用が不足して、おまけに内部抗争もあり、もう永久閉鎖かと思われたのですが、また同じようなことになるかもしれないわけで、音楽ファンとしてはとても不安です。これでは、じいさんのブレンデルがもう2度とここでは弾かないかもしれないどころの問題ではありません。

ロンドンにはバービカンやウィグモア・ホール等他にもいくつかコンサートホールがあるのですが、ロイヤル・フェスティバル・ホールが一番大きくてたしか3、500席位 (夏にプロムスをやるロイヤル・アルバート・ホールは6、000入りますが、あれはコンサート・ホールではありません)。主にクラシックの一流音楽家が毎日のように演奏してくれる、特にオーケストラにとっては一番重要な会場です。すぐ隣にあるちょっと小さなQueen Elizabeth Hallでしばらくやるようですが。

私はこの6年半の間に約60回行きました。(子供が生まれる前もトーチャンとよく行ったのですが、それは記録がないので回数不明) 私のお気に入りは舞台の後ろのコーラス席。特にピアノのときは理想的な角度で、鍵盤が全部よく見えるのです。オーケストラとピアノの共演の時はピアニストと指揮者が顔を見合わせてタイミングを図る様子もよくわかります。オーケストラのときは、音のバランスという意味では勿論良くないのでしょうが、見て唯一面白いのは指揮者の顔なのであって、とても表情豊かな人もいて面白いですよ。まるでオーケストラの中にいるような気分もするし。

おまけに、と言うべきかどうか、背もたれもなく座り心地が悪いので、値段がすごく安いのです。今回のブレンデルは12.3ポンド(約2,500円)。地元オーケストラとの共演のときはさらに安くて、5ポンドから7ポンド。ベルリン・フィルやウィーン・フィルのような海外一流オケのときは20ポンドくらいしますが、前から見るちゃんとした席だと70、80ポンドするのもするのです。

もっともこの席は歌やバイオリンには向かないので、そういうのはなるべくバービカンで行きます。バービカンは舞台に近い席が、近すぎて見難いという理由でこれまた安いので。なんだか安い切符ばかり狙って惨めですが、回数こなすためには仕方ない。


その夜の最後のコンサートはそんな特別な場合に相応しく超満員でしたが、いつものようにコーラス席のど真ん中に座っていた私は、客席や天井を見渡しながら、走馬灯を走らせて、これまで印象に残った数々のコンサートを思い出していました。そしたらとても感傷的な気分になって、ちょっと涙が出ちゃいました。

本当に、2年後にはピカピカになって音響も抜群のこのホールで又超一流の演奏が聴けますように・・。

たまにしか来なかった私ですら感傷的になるのに、あの人は一体どんな気持ちでいるのだろうか、と心配になる女性がいます。その人は60歳くらいでしょうか、なんと50数年前のオープン以来、何千回と来ていると50周年記念のテレビ番組で言っていました。少なくとも私が行ったときはいつも必ず同じ席に座っていました。最前列のちょっと舞台に向かって左よりという抜群の席で、どういう契約になっていたのでしょうか? 
クラシック音楽だけでなく、どんな種類のコンサートも欠かさずなのです。
ごく普通の階級で特にお金持ちにも見えないのですが。かなり太めで、いつも大きなプリント柄のワンピースを着ていて、あまり趣味がよくないのですが、一度大きなスイカ模様(丸ごとではなく切ってあって種が見えてるスイカ)のワンピースだったので、それからは一緒に行く友人との間で「スイカのおばさん」と呼んでました。ミセスということなので少なくとも一時は結婚していたのでしょうが、何十年間もほぼ毎晩何時間もあそこに来てるなんて、一体どういう生活しているんだろうかと。そして、これからはどうやって夜を過ごすのかしら?

最後に、終わってからコーラス席の柵を開けて舞台の上に歩き出ることができました。一度上ってみたかったんだ~!